人に見られてもいい日記。

人に見られてもいい程度の日記。

俯瞰した心を得るために。

スプーキーです。

人間観察が趣味の人は嫌いだが、人間観察そのものが悪いわけではないと最近気づいた。

 

 

心の視野が狭くなっているのを感じる。何かをしていても仕事のことを考えているからだろう。静かなプレッシャーというのはそこそこに強烈で、出来るだけそういうものを背負わないよう仕向けていた自分にとってはそこそこに苦痛である。

 

 

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夜中、海岸に行った。この暑い季節だ、花火をしているグループやカップルがいくつもいた。1人でうろついているなど不審者極まりなかったのでそれらを避けて端の方でじっと真っ暗な海を見ていた。

 

遠くの岸には工場の炎や照明が輝いていて、その時自分がいた砂浜と真逆の感じがした。人工の光でも明るいというのはなんとなく希望のようなものが湧いてくるのだと思う。

 

花火の軽快な破裂音が響いていて、賑やかなのを感じさせる。笑いと驚きが聞こえる度に、人間の繋がりというのがこうも分かりやすく伝わるのだなと感心した。

 

雷が鳴る度に、一瞬何か嫌なものを光で晒されているような気がした。別にやましいことなどないのだけど、そういう気分にさせられる。つまるところ、臆病でやましい人間という証左を突きつけられているのだ。雨が降ってきそうだったので早めに帰って寝た。

 

 

長年、自分はある程度物事を冷静で客観的に見ることができる人間だと思っていたがそれはどうやら間違いのようだった。客観的ではなく無関心だということだ。無関心は物事こそ冷静に見られるかもしれないが実際それ以上の働きかけというのはない。見るだけで終わりだ。そこから一歩踏み出して疑問や発見をするのが客観的という単語に昇華する。

 

無関心というのはそれだけで何かを失っていくような気がする。持っていたものでさえ手放してしまう。欲しいものが手に入らないのであれば、せめて持っている人たちのことをよく見て、外面と内面の違いを知れるようにしたい。

 

 

世界が広いということをもう1度知るために。