人に見られてもいい日記。

人に見られてもいい程度の日記。

僕ヤバを読んだら自分の感情が止まらなくなった話。

スプーキーです。

どこかに壁打ちしないといけない程度には動揺している。つまり自分語り。

 

 

僕の心のヤバい奴という漫画を読んだ。

まだ完結してないのでとりあえず最新6巻と最新話まで。あらすじは公式見た方がいいので割愛する。

 

まず、個人的にこれはラブコメという分類だと思っていない。

誤解しない様に説明すると市川と山田のやり取りはとてもドキドキするし羨ましい。もしもこんな状況があったらな、と真剣に思う。無論、多様なキャラクターもスパイスとしてとても素晴らしいしナンパイが普通にいい陽キャで安心したし割と好きなキャラクターだったりする。でも、そういうシーンはあくまでそういうシーン、という見方になっている。

 

 

この漫画は市川京太郎という男の成長物語だと思っている。あくまで、山田はそのきっかけを作ったキーパーソンという印象になっている。いや、山田は可愛いしこんな恋人欲しいなーって思うけど。普通にこいつらのカップリングを見たいけど公式が最大手だよね。2次創作がなくても読み返すだけでいい。

 

 

これはあくまで過去の話だが市川と自分の状況がとても似ている。多分、世の中にはそういう陰キャが多いんだろう。いじめられたりはないにしても、日陰者は案外どこにでもいるんだろう。それでも、とても他人事の様にしてこの漫画を読むことができなかった。深く深く、自己投影した自分がいるのだと感じた。

市川は山田との出会いをきっかけにして他者と関わる様になり、殺したかったはずの相手が好きという感情に変わっていることに気づく。そして山田との関わりを通じて自分自身と向き合う様になっていく。その描写が丁寧で生々しく、それでいて全力。でも全く嫌悪感なく、極めて爽やかに読み込まれていく。

中学生である市川に対して自分は何で幼い精神だったんだろうと、自己嫌悪した。逃げていた自分を少しずつ変えていった市川がとても眩しかった。

光を貰った市川自身が光の様だと思った。

 

 

我ながら逃げ続けてきた人生だと思った。傷つきすぎて傷つくのを恐れ、かつての市川の様に鎧を作り今日まで生きてきた。自己嫌悪にまみれて他人にはそんな素振りも見せずに笑ってきた。嫌なこともあったけど楽しかったのも事実であり、決して悪い道のりではないと今も思っている。

でも本当は苦しかった。自分の本心を誰にも悟られない様にするのは嘘をついている様な感じがしていた。なんとなく、感情が薄っぺらくなっていて物事に対する関心が逃げていくような。

好きなことをしていたつもりだ。好きなことをする事で自分らしくいられて、自己表現につながると思っていた。楽しかったのは事実。でもきっと本当に楽しい、ではなかった。心の底から笑えなかった。長続きしなかった。かつての山田の様にうまくいかないと飽きてしまった。

なんてこんなにも、虚しい思いをして生きているんだろうと悲しくなった。それが本当に悲しいのかさえよくわからない。

だけど、今は感情が抑えきれない。心の中で喜怒哀楽が満ち満ちながら溢れている。エネルギーがどこからともなく生産され、心の感情のために消費している。感情が何年間も溜まり続けていたのだろうか。自分は鎧を纏ったまま死にたくなかったのだ。

誰かに全てを曝け出せるようになりたい。ずっと、ずっとそう思っていた。でもそれは利己的だと思って封じ込めてきた。何年も、何年も。

市川は、ようやくその相手を見つけられたのだ。自分はそれを、とても羨ましいと思った。嫉妬した。そして持ってない自分は自己嫌悪した。

だから、何度も読み直して考えた。なぜ、市川は出会えたのか。

もちろん、フィクションである以上都合の良い展開はあって当然。現実なら失敗することも多いだろう。

市川は誰のためでもない、誰かのために行動しているのだ。それが自分にとって苦手でも、怖くても、行動しなければと思った瞬間。市川は逃げなかった。それは山田だったり原さんだったり対象は色々だが他者を思いやり誰かのためなら一呼吸置いたとしても必ず手を伸ばす(まあ基本は山田だけど)

その優しさは本当の優しさじゃないかと思う。

中学生という思春期において貴重な能力であり無二の能力。

本当は誰だって、誰かを思いやり優しさを分け与えれば手を伸ばしてくれる。それが自分には分からなかったのだ。

他人の行いは自分の鏡と聞いたことがある。誰かに向けた行動は自分に返ってくる。そう考えると、自分は自己嫌悪ゆえに誰かを傷つけてきた。それはまた自分に返ってきて、自己嫌悪が激しくなる。悪循環が重なるうちに今こうしている。

市川も同じような事をしていたのだろう。他者と関わるのが怖くなったために他人を拒絶し孤独を選んだ。でも山田が好きだと分かってからはそういった描写は殆ど見られない。嫌われたくなくて、一途に想った結果なのだろう。

 

 

自分に恋人が出来るとかそういうのは考えていない。でも、少なくとも自分が願う人間はいつか現れるんじゃないかと思う。それは胡坐をかいてればという安易な話ではない。

物事は因果の結果であり、引き寄せるのは自分次第、だけではないが多分に含まれる要素。行動しなければ何も変わらない。0よりも1が大きいことは明白であり、数字上よりも大きな違いである。

幸い、今の自分はそんなに嫌いではない。呆れた話だが、過去の自分に対してさえもそういうのもありだよなと思っている。因果の果てにこの漫画に出会った事は確かなのだから。

であれば。その自分に対する優しさを誰かに分けたっていいのではないだろうか。利己的に、保身に走るがために失敗しているのだ。例え報われなくても、誰かのために行動する事自体に間違いはない。もちろん、現実なのだから間違った行動は避けるべきであるが。今、音楽を作っている。音楽だけは唯一楽しめる趣味だ。これからは聞くだけではなくて、誰かに自分の優しさを分けられるような良い音楽を作って聞いてもらえるようになれたらと思う。少しずつ、少しずつ歩んでいきたい。

 

いつか現れるなんて幻想かもしれない。一生鎧が剥がれることなどないのかもしれない。

でも。

でも。

人間なんだからそのくらいの欲深さは許してくれないだろうか。

 

 

最後に

市川と山田が世界の終わりに一緒にカツカレーを食べる事を願っています。それまでずっと一緒で。どうか、どうか。

 

 

まだあの子はここを見ているのだろうか。

スプーキーです。

少しばかり後悔していても私にはどうすることもできない。

 

 

1ヶ月くらい前にSNSで知り合った女性がいる。

かなり若い方だったが精神疾患を患っているようだった。ほぼ偽善だったが私は彼女の話し相手になった。

 

 

精神疾患は表向きには分かりづらいものだ。見た目は普通なことが多いし、言動もさして問題ない。ただ、その裏は普通の人とは違うしその奥底を測ることは到底できない。だから私もかなり言動には気を遣ったつもりではある。つもりだけど。

 

 

1週間くらい話していて、私が根本的な助けにならないと分かると彼女は興味を示さなくなった。交換した連絡先は全て消えていた。私がもう少し粘り強くしていればよかったのかもしれないけど、自分がその責任を負える自信がない。覚悟を決めるには私には若過ぎる。それすら出来ないのにパートナーを欲しがると言うのはかなり愚かな思考だなとは今は思っている。そんな思考はどうあれ見透かされていたというのに。

 

 

ただ、このブログの存在は今でも見ているのかもしれない。アクセス解析で安定して1人見てる形跡がある。もしまたやり取り出来るならその時は謝りたい。

 

 

いつか本当に覚悟を決められる時が来るまで。

前置きなしでは会話できない世界。

スプーキーです。

この前置きも特にはいらないけど趣味で書いてる。

 

 

いつからか前置きというか、注意書きのような予防線を引かないと会話できない世界になったのだろう。隙があればあるだけ人々は個人を攻撃する。

 

 

文章というのは大体伝わり方が変わるようにできている。解釈が不定で確定した一文がないと真逆の伝わり方をすることもある。これはメリットでありデメリットである。文章そのものに損得を考えるのはなんとも複雑な気分だけどそういう風に割り切られている現状もまたあるのは確かだ。

 

 

だからどうしても意見や考え方、価値観が合わないと分かった瞬間に攻撃されるというのは理不尽に感じる。何にでも個人の考えです、なんて1文必要なのだろうか。個人の考えなんて誰でも分かっていることなのに。書いているのは組織としてではなく個人としてなのに。

 

 

自由主義というのがどういった自由なのかよくわからないが、攻撃的なのも価値観の尊重として捉えられるならそれは自由ではなくご都合主義ではないだろうか。温和で幸福な社会にするために自由主義というのが謳歌されてるのではないだろうか。

 

 

たかが文章、されど文章である。誰もが込めた想いを頭ごなしに否定して攻撃するというのは人間として美しく思えない。防衛反応として機能した前置きなど本来は必要のない文章なのに、それがあるだけでわたしにはひどく退屈な世界に思える。納得いかない意見なら建設的に会話できる方が必要な能力ではないだろうか。

 

 

最近の世界はひどく息苦しい。

 

 

病んでるか病んでないかと言われれば多分病んでる。

スプーキーです。

先月から金遣いが荒くなっているが多分自傷行為

 

 

今日、友達に高校の頃病んでたよね?って言われた。自分ではあまり自覚がなかったがそう見えたのだろう。

 

 

病んでるというよりは高校デビュー失敗してイキリオタクになっていたのは間違いない。目立ちたいからというわけでもなくただ好きなものをとことん追いかけていた、それだけだったと思う。まあ陰キャには変わらないのでやばい奴というのは確かだったが。

 

 

今は別に病んでようが病んでなかろうがあまり変化はない。人間なのでブレがあるのは仕方ないけど。その代わり、年を重ねる事で経験を積んできて自然とできるようになったことがある。

 

 

それが感情のコントロールだ。今更できるようになったのかって言われるんじゃないかとは思うけど実際おじさんおばさんって言われるような人たちが出来てるような人はあまり見た事ない気がする。コントロールってそこそこに難しい事で、人それぞれに敏感だったり琴線に触れる部分というのがある。いわゆる地雷だがうっかり踏まれてしまうと抑制できなくなるというのはよくある事だ。

 

 

当然、自分にもそういうのはあるけれどあまり怒ったりはしない。お互いにやってしまっていることではあるし、素直に謝ることも大切だと思うからだ。気に病むような行動を避ければ自然と心は落ち着いていく。

 

 

こういう行動は大体自己中心的になりがちなので失敗することも多いが必要なのは自分の方が大事だということだ。どうであれ自分が保ってさえいればあとから取り返せる。メンタルを保つための防衛本能は積極的に利用した方がなにかと便利だし楽だ。

 

 

自分が望むままを生きるために。

道は交わったりしない。

スプーキーです。

誰もが1人ひとつの道を持っている。

 

 

よく道を交えるという表現を耳にするけど個人的になんとなく違和感がある。結婚とかで暮らしを共にするから道が一緒という解釈なのだろうが実際個々人が得る経験値は異なる。

 

 

わたしの場合道とは経験値であって同じ道である人は誰1人としていない。この世界にはドッペルゲンガーなどいない。たとえ双子であろうとそれぞれに抱えるものは全く違う。

 

 

自分の経験値を他人に強要するというのは大した意味を持たない。経験値が異なるのでは活かしようがないからだ。ところが人間というものは不思議なもので自分ができることは他人もできると思っている。つまりこれは経験値が一緒だと思っている。実際はそんな事はないので、強要された側からすればなんの役にも立たないわけだが。

 

 

経験値が違うということは、協力し合うことでお互いを補えることにある。三人寄れば文殊の知恵というように、それぞれの経験が何かを成し遂げることはままある。故に人間は面白いし1人では生きていけないというのはそういうことなのだろう。

 

 

それはそれとして、他人の経験を共有するのは楽しいし自分の糧となるというのはとても良い。今日は推しに貢ぐ人間の実情を聞いてきたのだがあまりにスケールが違いすぎて笑ってしまった。それなりにオタクしてきたわたしでも驚いたし、情熱の深さに感心した。また来月会う機会があるのでその時にまた話を聞けたらいいなと思う。

 

 

道を作るのは自分次第。

 

優しいだけなら誰でも簡単になれる。

スプーキーです。

その人のために嫌われる覚悟を。

 

 

世の中は優しい誰かを求めていると感じる。思い描く理想はそれぞれだけど自分の存在を肯定して欲しいが故の感情なのかもしれない。

 

 

世間はそれとなく厳しいことが多くて冷たく感じることも多い。実際、自分だって寂しくなる感情に苛まれることがある。そういう時に癒しは必要だと思う。

 

 

ただ、癒しと逃げが混同しているような感じもまたあると思っている。現状の問題から目を背けるというのは何の進歩もない。

 

 

寄り添ったり慰め合うことは誰にでもできる。優しくすることなど表面上はおろか本心として出来てしまう、そういうものだと思う。けれど、人の為を思って自分を犠牲にすることはかなり難しい。

 

 

嫌なことを言うのは辛い。ましてや嫌われる可能性を孕んだ中では殊更言えない。けれど個人的には、嫌われないように行動するというのはいずれみんな離れていくような気がしてならない。もちろんその場の空気もあるし必要な場面も多いけれど、全てにおいてそういう行動をする人がいる。それはあまりに自我がなさすぎる。

 

 

言葉は人を傷つけるし人を救う。諸刃の剣であるからこそ、人と向き合うことをやめたくはない。わたしは誰にでも、大事だからこそ傷つけてしまうような厳しい事を言ってきたしこれからもやめるつもりはない。優しさも厳しさも、単一では救えない。優しさが世界に溢れるのなら、厳しさの役割を背負っていくつもりだ。それが大事な人と離れることになろうとも、プラスに働くと信じている。

 

 

誰かのために傷つくことを厭わないことが、自分の心のありかだから。

 

 

 

感情を向けてうまく行く時。

スプーキーです。

何事も大抵は論理的な行動で上手くいく。

 

 

近年、というかネットの普及で浮かび上がる様になったのはネガティブな感情を人々は思っているより他人にぶちまけるらしい。それが何の目的かはさっぱりわからないしそれぞれなんだろうけど、ろくなもんではないなと思う。

 

 

自分は基本共感性に欠けているので他人の気持ちとかそういうのはあんまり分からない。知ったところでふーんって思って終わりのことが多いし、だから何だろうと思う。阿吽の呼吸は付き合いが長くなるから身につくものであって、赤の他人に要求するのは間違いだと思う。ネットだけのやりとりなら尚更。付き合いが長くたってできるとは限らないのに。

 

 

ネガティブな感情が伴う行動は基本的に上手くいかない事が多い。ネガティブというだけで人間の行動は支障をきたしやすい。が、誰かを罵倒したり中傷するというのはインスタントに自分のストレスを発散できてしまう。ネットの普及でより顕在化した故に、その様子を見かけてしまうようになった。

 

 

年齢を重ねるにつれて、心を抉られる場面や描写が苦手になってきた。普段の生活で苦しいのに創作でさえ辛い思いをするのはかなり体力がいる話だ。臭いものに蓋をするわけじゃないが苦しいものを自分から見にいくことなど一種の自傷行為の様に感じる。

 

 

だから、行動する時はあまり難しく考えず、楽しめる様にしている。楽しもうとするポジティブな感情なら何となくでも上手くいくことがある。失敗することもあるけれど、それが何かの役に立つと信じて。

 

 

自分は凡人以外にはなれないから、凡人であることを楽しむように。