人に見られてもいい日記。

人に見られてもいい程度の日記。

共感能力の欠如。

スプーキーです。

病気ではないです、多分。

 

 

元から我が強いというか、他人の目を顧みずに好き勝手な事をしている性分なので敵が多い。敵が多いのは別にどうでも良い。どうせ何もできないしやらないのだ。それに、私を集団の結束のために贄にしていたのだろうからもはや憎悪も湧かない。

 

 

肝心なのは自分自身に他人に対する共感能力が欠如しているということだ。無論、良識や倫理に対する判断ができるのでサイコパスというわけではない。そもそもこんな日記書いていないと思う。

原因は色々だが、多分人との距離感を過度に離しているからかもしれない。経験上、距離感がバグりやすい性格なので意図的にどんな人物であろうと確実に一定の距離を置いている。相手に悟られない程度にしているつもりだが、存外隠せてないような気もする。

 

 

相手の気持ちを汲むにあたって距離感は非常に重要だ。距離感が近くなる程相手の気持ちになろうとする。そのくらい相手に対する思いが強いということだ。故に、経験を活かした気持ちの読み取りが出来るというわけだ。もちろん、確実に相手の気持ちが分かっているわけではないが。

 

 

距離感を取る自分にはそれができないので、気持ちも曖昧にしかわからない。読み取ろうとしてもモヤがかかるようでハッキリしないのだ。言ってしまえば相手に踏み込もうとしていないのだ。そんな半端な一歩で相手のことなど分かるはずもない。

 

 

これを天然と言ってしまうかどうかはわからないが、少なくともそれなりに困ってしまったこともある。だからといって今更どうこうなる話でもないのだが。最近の苦労を考えるなら会社の人間とのやりとりという意味では失敗したな、とは思っている。

 

 

それでも、このままでいいと思っている。距離感がバグって依存でもすれば破滅は免れない。学生の時に失敗してるから今があるところを、やめてしまった瞬間におかしくなるのは必然というものだ。なので、1人でいる時間を作るようにしている。友人関係がいつかなくなった時のために、1人で過ごすことが苦痛とならないように。

 

 

今更、そばにいる人などできるとは思えないのだから。

俯瞰した心を得るために。

スプーキーです。

人間観察が趣味の人は嫌いだが、人間観察そのものが悪いわけではないと最近気づいた。

 

 

心の視野が狭くなっているのを感じる。何かをしていても仕事のことを考えているからだろう。静かなプレッシャーというのはそこそこに強烈で、出来るだけそういうものを背負わないよう仕向けていた自分にとってはそこそこに苦痛である。

 

 

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夜中、海岸に行った。この暑い季節だ、花火をしているグループやカップルがいくつもいた。1人でうろついているなど不審者極まりなかったのでそれらを避けて端の方でじっと真っ暗な海を見ていた。

 

遠くの岸には工場の炎や照明が輝いていて、その時自分がいた砂浜と真逆の感じがした。人工の光でも明るいというのはなんとなく希望のようなものが湧いてくるのだと思う。

 

花火の軽快な破裂音が響いていて、賑やかなのを感じさせる。笑いと驚きが聞こえる度に、人間の繋がりというのがこうも分かりやすく伝わるのだなと感心した。

 

雷が鳴る度に、一瞬何か嫌なものを光で晒されているような気がした。別にやましいことなどないのだけど、そういう気分にさせられる。つまるところ、臆病でやましい人間という証左を突きつけられているのだ。雨が降ってきそうだったので早めに帰って寝た。

 

 

長年、自分はある程度物事を冷静で客観的に見ることができる人間だと思っていたがそれはどうやら間違いのようだった。客観的ではなく無関心だということだ。無関心は物事こそ冷静に見られるかもしれないが実際それ以上の働きかけというのはない。見るだけで終わりだ。そこから一歩踏み出して疑問や発見をするのが客観的という単語に昇華する。

 

無関心というのはそれだけで何かを失っていくような気がする。持っていたものでさえ手放してしまう。欲しいものが手に入らないのであれば、せめて持っている人たちのことをよく見て、外面と内面の違いを知れるようにしたい。

 

 

世界が広いということをもう1度知るために。

 

 

 

道端の幸せ。

スプーキーです。

自分の生き方は他人に委ねるものではない。

 

 

一般的な価値観としての幸せは大体結婚して家庭を築くというところに行き着く。独身貴族などというのは揶揄されているだけなのにさも特別なように扱うのもなんだか違和感がある。そもそも、独身だから幸せじゃない、結婚したから幸せなどと決める必要などあるのだろうか。

 

 

薄っぺらい価値観にしてきたのはメディアの影響が大きいのはあるけれど受動側にも思考という余地がない、あるいは思考を選択しなかったが故に固定された価値観を持って幸福の判定をしてきた。自分だけが判断するならともかく、こういう話にはとかく押し付けあいが起こる。わたしも無意識にしているのかもしれないが、決められる筋合いなどない。

 

 

思考をやめるというのは個人的には死に近いものだと思っている。どんなにくだらないことでも思考は大事だと思うし、そこから何か見出せることもある。もちろん常に思考していることはないけれど、考えるに越したことはない。だから自分の幸せというのは何か、というのも考えて然るべきなのだ。

 

 

別の価値観を受け入れられない場合というのは、純粋に感性の問題もあるかもしれない。しかし大抵は同調圧力によって固められているのだなあと思う。同調圧力は時として良い結果をもたらすけれど、それは思考の末に行き着くものであって、ただ屈しているだけなら自分の本当の気持ちと剥離したものであるのだから、幸せになるとは言い難いだろう。故に、結婚できないと幸せじゃないと言う人がいるわけだ。

 

 

自分の本当の気持ちは自分にしかわからない。ヒントはもらえるかもしれないが答えはくれない。そもそも答えだって変わるのかもしれない。嫌なことばかりかもしれないが、自分の過去を振り返ってみるのが一番手っ取り早い。楽しかったこともそこに眠っているからだ。若い時の幸福な体験は歳を重ねてからも強烈に残り、それこそが幸せだと思う価値観の原点なのだから。

 

 

思考を終えたなら、後は行動するだけだ。

無意味に意味をつける作業。

スプーキーです。

合理的思考は誰に対しての思考?

 

 

物事というのは大体2択に絞られる。意味があるかそうじゃないか。その中間は定かではないが殆どの場合この2つしかないはずだ。意味のある行動は人間に対しての動機付けなので実行力は非常に高く結果も良し悪し関係なく出る。無意味な行動は当然無意味なので動機付けとしては弱く、殆ど実行されないししても結果が悪いことの方が多い。それでも実行するだけすごいと思う。馬鹿かもしれないというのは置いておいて。

 

 

さて、合理主義が広まっている現代で合理的思考を持つ人々はとても多くいるわけだが、意味のあるような行動をしているつもりが無意味な行動だったりするのを散見する。私もきっとそういうのいっぱいあるんだろうな。合理的なくせに合理的ではないのはどういう事なのだろう。

 

 

少し考えて思ったのは「合理的になる対象」が曖昧だからなのではないかと思った。簡単に言えば自分かあるいは特定の人間を対象とする方が意味はつきやすい。身近な人間であれば行動に対してのリスクやリターンが分かりやすく、判断材料が多いから可能不可能が明確になる。自然、意味もつきやすい。不特定多数になると判断材料が少なく、材料そのものが不明瞭なので実際のところが分からなくなってしまう。その場では意味があるように見えても結果として意味がない行動になる。

 

 

逆に言えば、対象が曖昧なものをはっきりさせてしまえば意味のない行動に意味をつけることができる。意味がなかったかもしれない行動に意味を見出し、結果として変化を起こすことができる。諦めていたことも、どうしようもなかったことも、思考を巡らせればある程度は何か思いつく。あるいは諦めるために、終わらせるために思考を巡らせてもいい。少なくとも最終的には「自分のため」に行動するのだから。だからうっかり筋トレし忘れたりついついアイスを食べてしまった時は意味をつければいい。少なくとも精神的には気楽でいられる。

 

 

無意味なことなんて、本当は何一つだってないんだから。

肯定と受容。

スプーキーです。

何を以ってしても相容れないことはある。

 

 

精神面を保つにあたって重要なのが自己肯定感の上昇というのが昨今のトレンドである。

科学的根拠に基づいたワードなのですぐに定着し、流行しはじめた。あるいは、今まで見向きもされなかっただけなのかもしれないが。

 

 

自分の行動を自分で否定してしまうことは過去の自分をも否定してしまうことになる。すなわち人生の無駄と捉える。故に自己肯定していくことで失敗にめげずに前を向けられるようになる。これはわたし自身が実行していることであり、心掛けの一つとして肝に銘じていることでもある。

実際、積極的な自己肯定をしていくことは精神的には楽だ。悪い書き方ではあるが失敗してもそういう時もあると捉えていく方が次へと進みやすい。無論そのままではなんの解決にもなってないので改善策を練るわけだが、そういった行動ひとつをとってもその後処理に差は出てくるというわけだ。いくら自己肯定しても心のどこかでよくないと思うならそれは直すべきだと思うが。

 

 

自己肯定はあくまで自己を対象とするものだ。ワードとして正しいかは不明だが、他者肯定というワードが存在するものとして考えてみる。

他者肯定とは他者を肯定するということだ。励ます、というのが例として最もわかりやすい。他人に認められるというのはそれなりに救われた気分になる。

が、他者肯定は恐らくだが全く効果がない場合がある。つまり、励まされたくない人物であるということだ。

これは経験則だが、病んでいる人間は基本的に他者肯定されるのを非常に嫌う。自分の事を否定されてるわけでもないのに自意識過剰なので励ました人物にエゴイズムを感じてしまうからだ。励ますという行為に邪な考えがあるのは稀な事であるが、往々にしてネガティブにはネガティブな考えが重なってしまうようになっている。

 

 

ネットでよく共依存したいとか構って欲しいとかあるけれど、結局それは特定の誰かに宛てているものであって、不特定多数の誰かではないという事だ。ネットで他者肯定するというのは予め反応などないものと考えるのが大事だと思う。そうやって勘違いが重なっていくとミイラ取りがミイラになる。心の余裕など、最終的には自分で管理するものでしかないし、それだけが人を救う手段なのだから。

 

 

それでも、気になった人に声をかけるのは大事な事だ。思いがけない何かが人を変えるし、変わっていく。それはとてつもなく低い確率の話だけれど、そうなることに期待してしまう自分もいる。

 

 

情けは人の為ならず、とはよく言ったものだ。

 

気になっていたこと。

スプーキーです。

なんだかんだ気にしていることは多い。

 

 

生活というものをしていると気になる事ができるのは当然の話だ。興味や関心もあれば不満や不足を感じることもある。前者ならいいが後者は心理的に良くない上に引きずるのでタチが悪い。

 

 

最近で言えば雨続きなので満足にバイクを動かせない事だろうか。まあ平然と乗っている時もあるし土砂降りに巻き込まれる時もある。バイク新しくしてから雨に巻き込まれる確率が高いんだけど、やっぱり梅雨のせいだろうか。

あとは人間関係が気がかりな事が多いが、まあそれはどうとでもなるしいつのまにか解決していることもある。強いて言えば、自分がいざ反抗すると相手があっさり諦める事だろうか。多分、最初は舐めてかかるけどと顔とは裏腹に対応がキツイのでめんどくさくなるパターンじゃないだろうか。そうなってくれればこっちも楽なのだが、ストレス発散の対象は人をよく見て選んだ方がいいのになとは思う。

 

 

さて、前々から気になっているのはこのブログを読んでいる人がいるんだなあという事である。気まぐれで書いているので取り留めもなく役に立つこともないがそれでも読んでもらっているのはとてもありがたい事である。人並みに承認欲求があるのでなにかやりとりができたらなあとは思うのだけれど。

 

 

もっと人との繋がりが増やせたらいいな。

エネルギーの最大値。

スプーキーです。

たぶん、18歳から衰えていった。

 

 

幾年も経った今気づいたことがある。

いつのまにかアニメを見なくなり、

いつのまにかゲームから離れていき、

いつのまにか本と向き合う機会が減った。

もちろん、代替的な楽しみはいくつもあるけれど、

それでも確かに複数をこなせなくなるほど

エネルギーの最大値は減っている。

 

 

それを精神的な成熟と言うのだろうか。

子供の頃、武器を作る楽しみを捨て去るのは

思春期ゆえの成長だったのかもしれない。

でもアニメもゲームも本も心を満たす

確かな栄養素だったはずなのだ。

無自覚ではあるが、それでも確かに現実と戦うための休息だったと思う。

 

 

友人と、やりたい事が見つからないと言う話があった。友人は暇つぶしにやっている事はいくつかあるけれど、心自体は満たされているわけではなかった。何かもっと変化を望んでいる気がした。

私と同様に前よりアニメやゲームに熱心にはなれなかった。周りに合わせるのはある意味束縛的ではあるが楽しめるのは事実であったので、周りがやっているゲームやアニメを見るのにはさほど苦労していないようだったが。

 

 

恐らく、自分達が楽しんでいたものはコミュニケーションツールのひとつに過ぎないのではなかっただろうか。考えてみれば当然の帰結のような気がしている。私たちには思っている以上にシェアする文化が根付いており、それ自体に繋がりを感じている。ところがどうだろう、それは無意味なコンテンツの消費に過ぎず、自分自身の精神的な成熟とは何ら関係がない。むしろ幼稚さすらある。自分自身のアイデンティティを語っておきながらその実ツールとしてしか扱っていないせいで何かを証明するにはあまりにも貧弱で愚かな結末。

 

 

承認欲求を満たすにはあまりに浅はかな行動ではあるが、その道を通ってきたのも気づいたのも事実であり、自分の過去の証明としては充分である。でなければ今ここにいる自分ではないからだ。

もちろん、コンテンツ自体に気負いしすぎる必要はない。それでは楽しむ為のものではなくなってしまいそれこそ意味をなさない。だけれど、新しいものを吸収していく事が糧となり、何かの役に立つ、役に立たないとしても自分自身が身になったと思えるような意識をしっかりと持っていたい。そうすれば、最大値は増えていってより幅広く、熱量を深く捧げられるような気がするのだ。

 

 

あとは、何事も体が資本だ。