人に見られてもいい日記。

人に見られてもいい程度の日記。

変わったことと変わらないこと。

スプーキーです。

無常とは悲しいことではない。

 

この2ヶ月で大きく変化があった。

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バイクを新調し、ギターを始めた。

昨今の情勢もあるが色んなことをきっかけにして新しいことが始まっている。幸いな事に今のところ食うには困らないのでとりあえずは良いことだなあと思う。ギターの方はきっかけだったことが白紙になったので、ある意味自由と見るべきなのかしら。それもまあ1つだよね。

 

 

対して自分自身がどうかというとさして変わってはいない。それが良いことなのか悪いことなのかどうかはわからないが、少なくともチャレンジ精神だけは旺盛なのでこれは良いことだろう。

代わりに人間関係がややめんどくさくなっているところが出てきたのでどうしようかなという気持ちになっている。恋愛とか考えるのが面倒くさいのだ。なるようになれみたいな。それもまた自分なので嫌とかではない。

 

 

今日も断捨離を進める予定であるがどうなることやら。

精神的忙殺と摩耗。

スプーキーです。

キャパシティはまだ余裕がある。

 

 

この1ヶ月、というよりは日常的に物事に迫られる感覚を覚えている。元々物思い馳せる気質ではあるのだが、更に負荷がかかっている気がする。

 

 

色々と習慣をつけなければならない事が増えてきて、なおかつそれは好んでやりたい事ではないためにストレスとなっている実感がある。こう何年も社会に出ている身でありながら、これが一般的に言われる「忙しなく動き続ける非効率な社会」か……という気持ちに今更なっている。文章で視覚的に捉えないといけないくらいには整理がつかない。

 

 

あまり外出できないのもあって休日という時間が短く感じるようになってきて、もっと時間作りたいなあとは考えている。その前に精神的物理的体力がなくて結局平日は何もできてないのだけど。一応ゲームやったり楽器の練習したりはしているけど帰ってからだと夜更けなので家ですら忙しいような感じがする。まあ無理はしてないんだけど。

 

 

しんどいのはそういった日々の生活に終わりが見えない事だ。もちろん時間が経つにつれ変化は起きるのだけど、それが自分にとって望むべき変化でないこともある。今はちょうどそういう変化が起きている時期というか。こればかりは他人や環境が引き起こしているという予測はついているので受容するしかないが。

 

 

なんにせよ変わるのは自分次第なのでそれを粛々とこなすしか能がない、というかそれくらいしか自信を持って言える長所がないだけである。面白いことが言えるわけでも顔がいいわけでも愛想も別にさして良くはない。が、そんなことは結局他人との比較で成立する事であり自分の精神にはなんら関係ない。

 

 

惑わない程度にやっていこう。

他人のせいにするのは楽なだけ。

スプーキーです。

あんな記事書いたくせにもう絶交とは、我ながら面白いと思う。

 

 

珍しく喧嘩をした。まあ口喧嘩は嫌いではないけど得意でもない。めんどくさくなったから謝ったけどバレてるのかそのままお流れ。貸した漫画が人づてに帰ってくるのはありがたいことだが。貸した時はいい奴だと思ってたんだけどなー。

 

 

まあ冷静に考えてわたしもお節介焼きなところがあるのでそういうところがすごく嫌だったんだろうなーとは思う。好きだからこそ色々言いたくなってしまうのが性分なのでどうしようもない。聞いてくれないなんて百も承知だしね。

 

 

相手もきっと本当はとても優しい人間なんだろうなと思うし、実際そうだけどいかんせん自己評価が低すぎて何を言っても変化はない。いや、なくてもいいんだけどネガティブなことを人に言い続けるのは結構ストレスじゃない?という気持ち。わたしは聞くのは好きだ。そのかわりバッサリ切り捨ててしまうけど。

 

 

でも、1番個人的に嫌なのはなんでもかんでも人や環境のせいにして甘ったれてるところかなあとは思う。そんなんで誰かが救ってやれるほど世の中甘くはできてない。その代わり頑張ってる人間に手を差し伸べてくれるのもまた世の中でもある。まあそいつが頑張ってないかと言えばそうではないけど、少なくとも原因が自分にもあるのではないかと考えてないのもどうなんだろうね。もし自分が原因だと考えていたとしても性根ではなく外面のことしか気にしないだろうな、と思う。わたしとの喧嘩の原因がどちらにあるかと言えば、両成敗とは他人に言われるかな、きっと。

 

 

他人のせいにするのはめちゃくちゃ楽だなーと思う。でも楽なだけ。それ以上はないし結局自分がどうにかしなきゃと思わない限りは人は変わらない。自己変革こそ最大のブレイクスルーだしわたしもそうやって変わってきた。もちろん欠点だって山ほどあるけど困るものでもないことは多いし、それを補っている自分なりの長所もある。どんな形であれ自分は自分でしかないのだ。

 

 

とはいえ、別に嫌いな相手ではなかったのでこれからわたしを踏み台にして上手くやれればいいなと思う。そうやって人の幸せを願う方がわたしの気持ちも楽だし本当に幸せになれたならそれは祝福すべきことだと思う。色々言ってるけどきっと幸せになれる人間なはずなのだから。

 

 

過去を嫌悪してるだけでは何も変わらないから、わたしは前に進む。

 

パーソナリティ。

スプーキーです。

本当の自分ってなんだろう?という人をよく見かける。

 

 

人間社会において人格というのは割と重要な部分である。自由主義が跋扈する現代でありのまま、ありのままなんて流行っているけれど、そんな簡単に思えたりすることはそんなにない。

 

 

日本社会において縦社会は切っても切り離せないし、とりあえず長生きしてれば偉いなんて風潮は今でもある。長生きしてる連中がそう言うんだからそうもなるわな。そうやって若年層が無駄に搾取されていく。時間も幸福も。

 

 

おべっか使ったりお酒を注ぎに行ったり、クソつまらん話を楽しそうに振る舞ってみたり。上司の話題に合わせるために休日を消費する。もちろんそれが楽しいって人もいるから全て悪いわけじゃないけど、教育された私たちからとってみれば、何もかも苦痛なことって多いよな。教育されていたことと身近で役に立つことが反証でもするかのような理不尽さ。

 

 

正しさも虚しさも全部飲み込まれて気がついてみれば何してたのかわからない。何が目的だったのかもわからない。何もかも無くしてとりあえず息をしてみてるなんて頃もあって、ひどい学生生活でさえあの頃は良かったなんて思い出してみたりする。

 

 

そうやってそうやって自分の軌跡を否定して、人格でさえ何人もいると思い込んじゃって(もちろん精神疾患として言われてるならそうなのだろうけど)シクシクと泣いているのだと。

 

 

そういう人は結局どこにいたって同じなのだ。人格が悪いわけでも自分自身に罪があるわけでも、環境や周りの人間に全て非があるわけでもない。ただ、どんな行動をしたってそれが自分自身であることには何にも変わらないのだ。それを理解してないだけ。

 

 

少なくとも、行動の全ては頭が考えた結果か染み付いた癖以外には成立しないのだ。癖も頭も考えなきゃ治らない。無責任に人の事を悪く言ったりしたところで結局自分にしか跳ね返ってこない。自分の心は自分でしか解決できない。

 

 

もっと自分と向き合う時間があるといいな。

何よりも何よりも欲しいもの。

スプーキーです。

刺激は時に人を脆くさせる。

 

 

ただただ実直に人を好きになったことがない、何かしらの理由をつけている。心当たりはそれなりにあって、基本的に人を信用してないからだと思う。自分の中で納得する何かがないと全く持って関心が湧かないのだ。その理由もなくなってしまえばどうでも良くなる。無論、意図せず縁を切ってしまって悲しい思いをしたことは何度もあるが。

 

 

故に人間関係はかなり苦手な方だと思うのだが、懲りずに恋愛にせよ友情にせよ探し続けている自分がいる。いつかいつかと淡い期待を寄せながら、客観的には迷惑な人間としか映っていないというのに。そんな人間がうまく行くことなどそうそうないのだ。

 

 

先日、自分の中で大きな出来事があった。飲み屋で知り合った人と、その友人と遊ぶ機会があった。どちらもとても良い人で、一緒に遊んで楽しかった。本当に楽しそうにしている2人を見るとこんなにもいい2人だな、と思ったのは初めてだった。

 

 

大切にしていければいいなあ、と思っている。自分がそこまで熱が入るなど滅多にないことだからだ。ただそれが空回りしてしまう事に対して身に覚えることなど山ほどある。器用と思われながら実際はとんでもなく不器用だから、傷つけてしまわないかと少し怖い。それも独りよがりなだけでしかないのはわかっているのだけれど、友達としてみているにもかかわらずこんなにも動悸が治らないのは私があまりに純粋なのか病気かのどちらかだ。それ程に、自分がいかに幼く孤独に恐怖する人間なのだろうと考える。

 

 

2人にはそれぞれに意中の人がいるそうだ。うまくいって欲しいと本心で思っているが、同時に離れていくのではないかと言う気持ちもある。そういう意味では学生の時から何も変わっていないのだろう。少し自分が嫌になる。

 

 

2度はないと直感したあの時。2人とわたしで、どれだけの気持ちを交わせるのだろうか。いつか離れるその時まで。

 

 

何よりも何よりも、欲しかった存在がようやく見つかったかもしれない。

 

コミュニケーションのすれ違い。

スプーキーです。

必ず避けては通れない話。

 

 

今日はお互いの勘違いによって大問題になるところだった、という話を聞いた。もし何もやりとりしなければきっと大変なことになっていたことだろう。しかもお互いに普段からコミュニケーションを取る間柄である。そんな関係でさえ間違いというのは往々にして起こるので私たち人間とは……という気になる。

 

 

コミュニケーションによって起こるすれ違いはコミュニケーションによってでしか解決できないのも事実である。例えば静観だけならばいいが放置などは最悪で、関係そのものが悪化する恐れがある。大抵の人はそこら辺は重々承知しているはずだが、そうじゃない人がいるから起こるわけである。事実それでわたしは何度か人間関係を崩しているので救いようがない。

 

 

思い込みは個人的には悪しき本能だと思っていて、自己暗示に通じるものならともかく、思い込みでうまく事が運ぶ事はそうはないと経験則から感じる。何事も確認である。難しい事だとは思うけど初歩的なことでもある。

 

 

仕事と生活は一緒だと思っていて、仕事で使える事は生活に活かされるし、生活の出来事から仕事が捗ることもある。公私混同になるのは避けるべきだが、うまく使えば経験したことって何にでも活かせるのだ。それはコミュニケーションも同じで、学んだことは少なからず活かされている。逆に活かせていない人は真剣に学んでないんだろうなと個人的には思う。先の2人にもそれが言えると思う。とはいえ責める権利をわたしが持っているわけではないが。

 

 

それが人間だといえば聞こえは良いけれど、言い訳にしてしまってはそれこそ元も子もない。わたしもそんな話を聞いた以上は頑張ろー、という気持ちはあるが真剣になるのは面倒くさいな。

 

 

真面目に不真面目に取り組んでいこう。

死のエネルギー。

スプーキーです。

年始早々新宿の自殺は余りに悲しすぎる。

 

 

年始から自分の周りで不幸に近いものがあると、自分だけではないなーと思うので落胆というか悲観みたいなものは殆ど無くなった。

 

 

そんな風にして自殺について考えていると、自殺する人って実はものすごいエネルギーを持っているんだなあと思った。そのきっかけとかそういうものは人それぞれとして、だ。

 

 

まず、実行するエネルギーである。自殺の方法を調べて適切な方法を実行するというのはエネルギーなしでは何もできない。置き換えれば何かの作業とやっていることは同じなのだ。そうまでして死にたい人のガソリンは潤沢らしい。羨まし過ぎてバイクに注入したいくらいだ。

 

 

次に、思考するエネルギーである。きっかけなしに自殺しようと思う人はいないので、きっかけを回想しながら沸々と死ぬための動機を作り続ける。これは実に嫌な気分で進行していくものなので考えているだけで耐えられなくなるのではないか。死ぬより先に心が虚無になる様な気がする。

 

 

そして、それらの負荷に対して対応できるエネルギーである。正直思考停止して考えたりするのをやめるのが本能だと思うのだが、何故か負荷に対して対応するエネルギーを所持しているらしく、自殺へと向かっていける様だ。どこにそんなエネルギーを所持しているのか疑問でしかない。

 

 

大体3つの異なるエネルギーを使って自殺する人達だが、今起きている地獄と比べれば些細なことなのかもしれない。しかしそのエネルギーは発想を変えれば現状を変える手段になり得るのになあと思う。わたしの考えなど甘いのかもしれないけど、やらない事には何も変わらないのだ。

 

 

もう一つ考えていたのは、自殺する人たちは思っている以上に現実主義者であるという事だ。一生懸命嫌な人たちのことを考えて生きている。死にそうな人たちほど生に対して向き合っているというがその通りなのかもしれない。わたしの場合は嫌な人たちの事は思考しても仕方ないから忘れたり考えない様にしている。それはある意味生に対して向き合っていないという事なのだから、正直すごいと思う。

 

 

自殺はしない方がいいに決まっているし、世の中色んなことがいっぱいあるので知らずに死ぬのは勿体無いなあ、と思う。だけれど、目を向ける余裕もなく、自殺のためにしかエネルギーを行使できないというのは決して対岸の火事ではないと思う。何かのきっかけで人は容易に死ぬし、死にたくなったりする。わたしも同じ。

だからこそ、今のうちに余力を残さずやりたいことをやって生きていくのがいい気がする。余裕がないと死ぬことなんて考えられないからだ。

 

 

過労死は避けるけど。