死のエネルギー。
スプーキーです。
年始早々新宿の自殺は余りに悲しすぎる。
年始から自分の周りで不幸に近いものがあると、自分だけではないなーと思うので落胆というか悲観みたいなものは殆ど無くなった。
そんな風にして自殺について考えていると、自殺する人って実はものすごいエネルギーを持っているんだなあと思った。そのきっかけとかそういうものは人それぞれとして、だ。
まず、実行するエネルギーである。自殺の方法を調べて適切な方法を実行するというのはエネルギーなしでは何もできない。置き換えれば何かの作業とやっていることは同じなのだ。そうまでして死にたい人のガソリンは潤沢らしい。羨まし過ぎてバイクに注入したいくらいだ。
次に、思考するエネルギーである。きっかけなしに自殺しようと思う人はいないので、きっかけを回想しながら沸々と死ぬための動機を作り続ける。これは実に嫌な気分で進行していくものなので考えているだけで耐えられなくなるのではないか。死ぬより先に心が虚無になる様な気がする。
そして、それらの負荷に対して対応できるエネルギーである。正直思考停止して考えたりするのをやめるのが本能だと思うのだが、何故か負荷に対して対応するエネルギーを所持しているらしく、自殺へと向かっていける様だ。どこにそんなエネルギーを所持しているのか疑問でしかない。
大体3つの異なるエネルギーを使って自殺する人達だが、今起きている地獄と比べれば些細なことなのかもしれない。しかしそのエネルギーは発想を変えれば現状を変える手段になり得るのになあと思う。わたしの考えなど甘いのかもしれないけど、やらない事には何も変わらないのだ。
もう一つ考えていたのは、自殺する人たちは思っている以上に現実主義者であるという事だ。一生懸命嫌な人たちのことを考えて生きている。死にそうな人たちほど生に対して向き合っているというがその通りなのかもしれない。わたしの場合は嫌な人たちの事は思考しても仕方ないから忘れたり考えない様にしている。それはある意味生に対して向き合っていないという事なのだから、正直すごいと思う。
自殺はしない方がいいに決まっているし、世の中色んなことがいっぱいあるので知らずに死ぬのは勿体無いなあ、と思う。だけれど、目を向ける余裕もなく、自殺のためにしかエネルギーを行使できないというのは決して対岸の火事ではないと思う。何かのきっかけで人は容易に死ぬし、死にたくなったりする。わたしも同じ。
だからこそ、今のうちに余力を残さずやりたいことをやって生きていくのがいい気がする。余裕がないと死ぬことなんて考えられないからだ。
過労死は避けるけど。