人に見られてもいい日記。

人に見られてもいい程度の日記。

エネルギーの最大値。

スプーキーです。

たぶん、18歳から衰えていった。

 

 

幾年も経った今気づいたことがある。

いつのまにかアニメを見なくなり、

いつのまにかゲームから離れていき、

いつのまにか本と向き合う機会が減った。

もちろん、代替的な楽しみはいくつもあるけれど、

それでも確かに複数をこなせなくなるほど

エネルギーの最大値は減っている。

 

 

それを精神的な成熟と言うのだろうか。

子供の頃、武器を作る楽しみを捨て去るのは

思春期ゆえの成長だったのかもしれない。

でもアニメもゲームも本も心を満たす

確かな栄養素だったはずなのだ。

無自覚ではあるが、それでも確かに現実と戦うための休息だったと思う。

 

 

友人と、やりたい事が見つからないと言う話があった。友人は暇つぶしにやっている事はいくつかあるけれど、心自体は満たされているわけではなかった。何かもっと変化を望んでいる気がした。

私と同様に前よりアニメやゲームに熱心にはなれなかった。周りに合わせるのはある意味束縛的ではあるが楽しめるのは事実であったので、周りがやっているゲームやアニメを見るのにはさほど苦労していないようだったが。

 

 

恐らく、自分達が楽しんでいたものはコミュニケーションツールのひとつに過ぎないのではなかっただろうか。考えてみれば当然の帰結のような気がしている。私たちには思っている以上にシェアする文化が根付いており、それ自体に繋がりを感じている。ところがどうだろう、それは無意味なコンテンツの消費に過ぎず、自分自身の精神的な成熟とは何ら関係がない。むしろ幼稚さすらある。自分自身のアイデンティティを語っておきながらその実ツールとしてしか扱っていないせいで何かを証明するにはあまりにも貧弱で愚かな結末。

 

 

承認欲求を満たすにはあまりに浅はかな行動ではあるが、その道を通ってきたのも気づいたのも事実であり、自分の過去の証明としては充分である。でなければ今ここにいる自分ではないからだ。

もちろん、コンテンツ自体に気負いしすぎる必要はない。それでは楽しむ為のものではなくなってしまいそれこそ意味をなさない。だけれど、新しいものを吸収していく事が糧となり、何かの役に立つ、役に立たないとしても自分自身が身になったと思えるような意識をしっかりと持っていたい。そうすれば、最大値は増えていってより幅広く、熱量を深く捧げられるような気がするのだ。

 

 

あとは、何事も体が資本だ。