肯定と受容。
スプーキーです。
何を以ってしても相容れないことはある。
精神面を保つにあたって重要なのが自己肯定感の上昇というのが昨今のトレンドである。
科学的根拠に基づいたワードなのですぐに定着し、流行しはじめた。あるいは、今まで見向きもされなかっただけなのかもしれないが。
自分の行動を自分で否定してしまうことは過去の自分をも否定してしまうことになる。すなわち人生の無駄と捉える。故に自己肯定していくことで失敗にめげずに前を向けられるようになる。これはわたし自身が実行していることであり、心掛けの一つとして肝に銘じていることでもある。
実際、積極的な自己肯定をしていくことは精神的には楽だ。悪い書き方ではあるが失敗してもそういう時もあると捉えていく方が次へと進みやすい。無論そのままではなんの解決にもなってないので改善策を練るわけだが、そういった行動ひとつをとってもその後処理に差は出てくるというわけだ。いくら自己肯定しても心のどこかでよくないと思うならそれは直すべきだと思うが。
自己肯定はあくまで自己を対象とするものだ。ワードとして正しいかは不明だが、他者肯定というワードが存在するものとして考えてみる。
他者肯定とは他者を肯定するということだ。励ます、というのが例として最もわかりやすい。他人に認められるというのはそれなりに救われた気分になる。
が、他者肯定は恐らくだが全く効果がない場合がある。つまり、励まされたくない人物であるということだ。
これは経験則だが、病んでいる人間は基本的に他者肯定されるのを非常に嫌う。自分の事を否定されてるわけでもないのに自意識過剰なので励ました人物にエゴイズムを感じてしまうからだ。励ますという行為に邪な考えがあるのは稀な事であるが、往々にしてネガティブにはネガティブな考えが重なってしまうようになっている。
ネットでよく共依存したいとか構って欲しいとかあるけれど、結局それは特定の誰かに宛てているものであって、不特定多数の誰かではないという事だ。ネットで他者肯定するというのは予め反応などないものと考えるのが大事だと思う。そうやって勘違いが重なっていくとミイラ取りがミイラになる。心の余裕など、最終的には自分で管理するものでしかないし、それだけが人を救う手段なのだから。
それでも、気になった人に声をかけるのは大事な事だ。思いがけない何かが人を変えるし、変わっていく。それはとてつもなく低い確率の話だけれど、そうなることに期待してしまう自分もいる。
情けは人の為ならず、とはよく言ったものだ。