人に見られてもいい日記。

人に見られてもいい程度の日記。

生きることと死ぬこと。

スプーキーです。

わたしたちがいつまでも悩み続けること。

 

 

CS放送Dr.コトーの診療所がやっていた。

当時は幼かったのでなんとなくという感じで見ていたが、今見ると心を揺さぶられる感覚がある。

 

 

脚本や演技もさることながら、原作に忠実な描き方をしていてとても良い(ドラマを見てから原作を読んだクチではあるが)

原作ありきのドラマは難しい部分があって、原作自体が現実に近い世界観でないと剥離しやすく批判を買う事は昨今では珍しくないことである。

 

 

わたしたちは自然の摂理に従って生きているわけだが、死ぬ時というのは必ずしもそうとは限らない。人工的な死は存在する。具体的には、殺人とか自殺とか。ありふれた死になりがちだけれど決していいものではない。

 

 

そもそも、死ぬということ自体にネガティブなイメージが定着している。これは自然なことであり何の異論もないのだが、わたしとしては別にポジティブでもいいんじゃないかなと思う。

 

 

あきおじという老人がガンに全身を侵されており、島の主治医であるコトーは手術を試みるも救える可能性は万に1つもなく、閉腹するシーンがある。コトーは救えなかった命に悲しみと悔しさが入り混じり、しばらくは晴れない気分でいた。

しかし、退院してからのあきおじはとても元気であり、座椅子に座る程度ならニコニコと笑顔を見せていた。当然、余命が短い事はコトーの配慮により知らされていない。きっと自分が長くない事は悟っていたのだろう。だけれどそれでも生き生きと輝いていた。

 

 

そう、死ぬ事は決して絶望などではないのだ。自らの人生に悔いもあり、悲しみもあったろう。それでもあきおじは満足していたのだ。家族や、手術をしてくれたコトーに感謝していたのだろう。

 

 

死ぬ事は別れである。しかし別れにはネガティブな感情だけではない。死も同じなのだ。残していく者、残されていく者、それぞれには大きな感情が揺れ動いている。不安定でいい状態とは言い難い。その過程は残していく者が彼らが前に進むために何かを残す時間として、残される者がそれを受け取るために必要なのだ。

 

 

そうやって私たちは誰かと生きていて死んでいくのだ。何ら不思議なことではない。当たり前だと思えば怖くはない。怖がる前に自分のある今を歩いていくべきなのだ。なすべき事を達成する為に。

 

 

少しずつ、少しずつ。